昭和42年1月20日 朝の御理解
神様の、特別の、お働きというものは、信心をしなければ、分からない味合いであり、分からないおかげであります、神様の特別の働きを頂くとうことが、信心で言うおかげであります、「世界中の、氏子におかげはやってある」と、とおっしゃる、そのおかげではないのです、よくよく思うてみると、天地の親神様の御恩恵に浴しない者は、人間だけではない、一切、ひとし生きる者の上に、お恵みを頂いておるのでございますけれども、その、お恵みを、また、いよいよ、お恵みたらしめるというおかげ、ですから、ここんところの味合いが分かったら、信心は、いよいよ、精進しなければおられない、いわゆる信心は止められないということになります、ところがはたしてその止められないと、「こりゃぁどうでも、この信心を子にも孫にも伝えて行かなければならないぞ」と、いわゆる「自分の知っておる、縁のある限りの人達にこの信心を、分かってももらわなければ、ならん、分かってもらいたい」という願いがです、ね、神様のそうした特別の、働きを働きと知らなければです、お勧めも出来ません、また、思いも切になってまいりません、「この信心を自分の子供に、そして孫に、伝えておきたい」という、それは、どういうことでしょうかね、言うならば、あ~、太陽の、お恵みと言うか、太陽お天道様のお光が万遍無しにこう照っております、信心をするというのは、その、光をです、特別にこう、集める働きというのがある、それは丁度、このレンズならレンズを、こう持っていきますよね、そすとその、太陽の、お天道様の光をズーっとここに一つに集めることが出来る、ね、例えば、5の熱さがあるならば、それを10にも20にもする、働き、ね、そこんところを、私は信心だとこう思うです。ね。
「神様なんかござるもんか」と、と、例えば言う人には、「ござらん」と言うけども、やはりそういう人達の上にでも、神様はござるのです、万遍無しにおかげを下さっておるのです、けれども「神様ここにあり」と、確信して、その神様に、お縋りして行くところにです、頂けれるのが、それは丁度、レンズを太陽と、それから、ここにある、その物体なら物体の上にです、そそがれるところの、人間なら人間にそすがれる、力、働きというものがです、ウゥーっと、それが10倍にも何10倍にも、まってくるわけなんです、ね、ですから、例えばどういうようにめぐりの深い人、ならめぐりの深い人ほど、これがその、何て言うですかね、黒い物を人に、墨で書いたような物を置いとくと、それが燃え出すようにあるでしょうが、白い紙んところに、では、燃えんでも、黒い、あの、字を書いておる所には、余計そこん所が、その燃え出すような、いわゆるどんなに黒いめぐりのある家でもです、神様にお縋りさして頂くところから、それを、焼っきらなければおかん、( ? )やらなければおかん、というような、働きがあることも、また皆さん合点が行くでしょうが、ね、そこに、私は、いわゆるお天道様、レンズ、そして私共と、いうことが言えるんですね、いわゆるこのレンズという、お取り次ぎのお徳によって、そういう、信心のおかげによって、そういうおかげが頂かれるというのです。ね。
うんなら、そのおかげというのは、その、どういう風に現れてくるかと、ここが大変、いわゆる、味合いのあるところであり、信心の(?)があるところです、「どうぞここば(?)のだ」と、「どうぞああなりますように」と言うて、願うて、ああもなりゃこうもなるけれども、それは、神様は「本当のおかげではないぞ」とおっしゃる、ね、願うても願うても、右や左になる、左が右になる、これほど信心するのにと、例えば思うようなこともあるくらいにです、右と願えば左となり左と願えば右となるといったようなこと続いておる時こそ、氏子が一心に縋れば縋っておるほどです、いよいよ神の働きが始まっておるのぞとおっしゃるです、ね、ですから、最近頂いておりますように、神の働きがです、自分のものになっていないような、例えば難儀の形を持って現れる時、た時にです、それとても神様の働きであるから、お礼を申し上げる心を忘れるなとこうおっしゃるのです、だからこそ、教祖が、「此の方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん」というような、苦労はさせんというようなおかげが、その先にあるのです、ね。
そして、神様のおかげというのは、とてもとても、私共が想像もつかない、思いにもつかない、おかげを、私共のために、ちゃ~んと準備を、しておって下さるのでございます、しかもそれは、その用意というのは、もうそもそも答えの無いところの、それこそ、神乍らの、御用意でございますけれども、ね、そこんところのおかげを頂かせて頂くために、私共がどうならなければならないかと、神様の働きを十二分に、ね、十全たらしめるために、私共がどういうようなあり方にならなければならないかと、私共が、ね、完璧な人間にならなければならないと、もう真心の熱い人間にならなければならいと言うけれども、そう完璧な人間ということは、なかなか出来ません、ただし完璧を目指してることは、これは尊いことです、ね、「此の方のことを生神生神と言うておるども、此の方は、がおかげの受け始めであった、皆もこのようなおかげが受けられる」とおっしゃるけれど、「私達は生神様になれんでいい」と言うたんじゃつまらん、金光様の御信心さして頂く皆が、その生神様を目指さなければいけん、「生神とはここに神が生まれるということである」と、ね、「皆もこのようなおかげが受けられる」とおっしゃる、ね、言うなら、そういうもんを本当に、完璧に私共が目指して、私共が信心さして頂く、限りない、それを私は、限りない喜び、を頂かせて頂くために、本気で一つ、限りなく美しゅうならして頂くんだということになってくるのではないでしょうか、ね、私共が限りなく、これで良いとは思いません、もう限りなく美しゅうなりたいと思う、そういう願いなんです、ですから、限りなく美しゅうなりたいというのですから、私は楽しみだと思うんですけどどうでしょうか、ね、例えば、日本一の美女と言われる山岡ふじかがです、「もう私は日本一やけんこんくらいで良か」と思うとらんですよきっと、「より美しくなりたい」と思うて、やはり(?)もすれば、ね、身を、いわゆる、いつまでも歳をとらんですむような、私は、その養生なんかもしておるのであろうと私は思います、「もう自分の日本一の美しさだから、もうこれで良い」とは思ってないです、「より美しくなりたい」ということを、私は魂にしておるでだろうと思うようにです、ね、金光様でもそうであった、それこそ、天地の親神様が、惚れ惚れとして、その、ごらんになるような、「素晴らしいこんな氏子まで見たことがない」とおっしゃるようなです、内容をお持ちになっておられても、これですんだとはいつも思っておられない、もう限りなく、自分というものを、完璧なものへ、完璧なものへと、言うなら椛目で言うところの、限りなく美しくなりたいという願いを、お持ちになっておられたであろうとこう思うのです、楽しみなんですよ信心がだから、ね、「こげな修行ばせにゃんあげな修行ばせんならん」と、修行のことばっかり思うたら、それが術無いかもしれませんけれども、ね、それを、一修行させて頂くたんべんに、私が美しゅうなっておるというような、おかげを頂いたら、楽しみだと思うんです、ね。
神様の、お働きを、ね、十全にする、ね、神様のお働きを十二分に、頂き止めようとする心というのは、私がそう言うようにです、「本気で改まりもいたします、本気で磨きもいたします」「本気でどうぞ有り難うならして下さい、本気で美しゅうならして下さい」というような、私は願いを持っておる人の上に、そういうおかげが現れてくると思う。
私が、二十年前のことを思うてみると、ね、私はどう~も金光様の先生に、なられるこつは全然思わなかった、もうそれこそ夢にも思わなかった、私の信心が段々博につかしてくると皆さんが言うておられました、「いよいよあなたは、本部、御本部行きでしょう」と、けれども、冗談のごと、ほんなこと冗談のごと、と思うとりました、ね、ただただ願いというのは、福岡に大きな、言わば、あ~、お店をしたいと、私はもう商売より他にした、したこともないし、またしきっ、自分の才能というものを知っておる、他に才能が無いと自分で思っておる、ですから商売で一つ、一働きさして頂こう、そしてお神様の御用にでも大きく、おおいに使うて頂くような私にならして頂きたいという、念願のために一生懸命の修行をさして頂いた、その時分に神様はさっさと、こういう事になることための、働きをしておって下さったに違いないのですね、それが、願っても右になったり左になったりそして、そのお商売がどうにも、いけなくなったというようなことになっておったのですよ、ね、「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」とおっしゃることはです、ね、「お前の思う通りにしてやる」ということではないと思います、お前の思い、お前のかけんごと思えない、幸せの世界に導こうとされる神様の、働きのことであると私は思います。
昨日も、委員長、是非ここで、ああったことはここで、御造営の事についてから、会合しなければならなんことがあった、こちらへ、みえておられました、ところが先方から電話がかかってまいりました、今日という約束であったのが、明日になりますからという、電話がかかってきた、言うならば、毅然のようであった、けれども、なら(?)先生の信心がです、神様が無駄にしなさるはずがないけん、何か他に御用があるじゃろうと、とるところへ、麻生さんが、定番でやってまいりました、また、しげおさんもそのお礼の事で、来ておりから、私は知らなかったですけども、昼から、あの~日田の方へ、やらして頂いたということです、夕べ遅う帰ってみえられました、まあ大変おかげ頂きましてから、「これはもう先生、これはもういよいよ私は皆さんの前に出られん」っち「なしや」っち、「またこれが、その~、お~、長引きそうになりました」っち言うわけ、「もう今回、今度はもう間違いありません」って言うてまた今度は「延びました」とこう言われるわけなんです、でも、「二月の二十二日までに、誕生するように、したい」と(?)が言うてるそうです、けれどもそこまでになるためにです、もう本当に神様の働きと言うか何と言うかもう、それをそげんいったことばかり話しを聞きますと、勿論先生、色んな事が、非常に、(?)のように分かりますから、もうこの桧代が、もう全部、薄~く使わなければならん物も薄~くわき上げてあり、もういつでも仕事にかかるばっかりにして、言わば乾燥を待っておるだけだそうでございます、ですから、いよいよいわゆる、その完璧なですね、そのお社を作らして頂くためには、どうしてもここにこれだけの日にちがいるとこう言うんです、ところがです、その、日にちがいると向こうが言うておるのも、ひょっとすりゃ嘘のようにもあるんですけれどもです、向こうの方で、やはりそれだけ、二十三日までに、仕上げなさらなければならない、やっぱ、あるとこ二軒、大きな、お家を、建てておられるそうですが、なかなかやっぱり立派な技術でしょうですね、それは見せてもらったそうですが、もういつも、どういうようなこう、(きがらな?)をくくったような、問いつきに言いようのないごたる感じの、その大工さんですけども、昨日はそういうように、こちらとの約束を、次から次とその、間違えておることが非常にやっぱり来苦しいんですよね、だからその相すまんという気持ちがあるもんだから、昨日はもう、言うなら下にもおかんように、皆さんを、おまっ、されたということでございます、そして、ここんところはもういよいよ間違えんと言うんではなくてです、そういうことに、その時期を、時間を、頂いたらです、ね、これが、私共が、その、まあここだけの話しで言ってましたが、なるほどそうしたら、これが、乾燥とが、丁度良い、時期に、なるだろうということを、言うておりましたがですね、そういうな事でも起こりゃぁ、私共の思い通りといったような事、ではないですね、神様の思いのままになって行きよるという感じです、ですっ、ですからこそ、いよいよ良い物が、いよいよ完璧な物がです出来上がって行くわけなんです、帰りに、すまよさんにも、よって、言うておりましたが、すまよさんもやっぱ同じような事であった、何かにだって非常にこう、神様の働きというものは、そうやってあっておるのです、ね、そこんところをです、私共が、どうでしょうか、何月何日っち決めてあったんです、それを「してもらわにゃでけん」と言うて、まっしてもらうこと、なるほどそうすれば、まっ出来んことないかもしれません、けれども、より良い良い物は生まれません、ね、そこで私共が思うことはです、いつも任せきっておらなければ、一番最高の物は頂けないということが分かります、「どうぞこの日にして下さい」といったような願いではなくて、ね、もう神様のおよろしいように、お任せしきるということ、ね、氏子神様任せならとおっしゃる、任せるということはそういうことなんです、そんならただ、横から見てお任せさえしとけばというのではなくて只今申しますようにです、限りなく美しゅうならして頂くことにいよいよ焦点をおかせて頂いて、一心に縋るということと、任せるということが、一つにならなければいけないということ、そこでまあ皆さんが、まあ言うなら、ここでは、私の信心を、見て下さる以外にはございません、私はどのくらい、言わば、(?)任せきっておるかということ、ね、皆さんが「どうしようか」と、御神意を伺える時には御神意を伺いますけれども、でない時には、「とにかくあなた方の良いように、もうあなた方が一番良いと思う方法を」という、これはあなた方に任せておるということはです、ね、これは神様にお任せしておるということと同じことなんです、ね、それを自分がああしたいこうしたい、こうしなければおかげでないような思い方の中には、神様の十分な働きを頂くことは出来ない、お互いが、これは、ここの始まる頃、もう盛んに申しました、「ついてきなされこの提灯に決して苦労はさせはせん」と、神様が行こうとおっしゃる所へ行く、ついてさえ行きゃ決して苦労はないのだと、ね、そこで私共が一生懸命の修行をする、ね、「雨の降る日はおじゃるなと言うに、濡れおじゃればなお可愛い」と、これが修行なんです、「もう今日は参ってこんでん良かが」こりゃぁ修行の出来ん、それならにゃいけません、もうまいっ、「参ってこんでも良いのに、そんくらいの(?)しとるじゃないか」と例えば言われてもです、ね、やっぱり、濡れてでもやってくりゃぁ、なお可愛いという働きがです、始まる、そういう私は、修行が必要であるということ、それが一心に縋るとうこと、一心に縋っておる印をその(?)で現して行くということ、一心に縋っておると言うてから、言いわけばっかりしてからお参りしてこん、「ほんなこて一心に縋っとるか」と神様が言いなさる、たいような、感じがするでしょうが、ね、「一心に縋っとります」「もうあんた今日なたり行きなさんな」「いいえそれでもやっぱり」とそこに一心の、姿というものを、そういう信心に現していくことを、修行とこう思う、一心、縋る、ね、そして、無我には任せる、その無我に任せるというのも、ただ(おでこま?)においておるというのだけではない、いよいよ限りなく美しゅうならして頂くということに、焦点を置いての、働きに、神様の十月年の歩みというものを思うてみる時にです、もう本当に私共の思いということ、思いということよりもです、いつも思い以上願い以上のおかげを頂いておるということ、ね、もう本当にそうなんです。
これは、え~、(いちのり?)ここが建ちました時に、大大祭を仕えられた時に、皆さんも言うておりました、ね、その今、(中原さん?)が座っておられる所まででした、もいうちゃある、こちらはもう庭でした、そちらがお宮で、まあそこにお祭りしてございました、ここは柿畑でしたこっちの方は、でここでお祭りを頂きながらです、こうすんだ時に、「先生ここが真っ直~ぐ、向こうの道まで、御広前が出来るならもうどげん良かでしょうか」っち言いよった、例えば(?)見ても、ここいっぱいになってしまうごとなる、ね、ここだけがこう、(?)がここまでになったらさぞ良かろうと言うわけ、とてもそげなこつが、まその当時としては、出来るはずがないことをです、皆が願っておった、ところが、もう一年後には、その倍の広さになっておった、私共が言いよった、倍の広さになっておった、本当にここが手に入ったなら素晴らしかろう、ここがあの、合楽の場合でもそうだったでしょうが、あの、二反の所を手に入れるために、そう~とうな、( ? )までご迷惑かけてから、あ~あそこば、あの等級表までも行ったりしてからゆうじゅうした結果、思うようにならなかった、そんなら上の方の三反の所四反の所と、それも思うようにならなかった、神様はまぁだ、もっと、便利な、もっと素晴らしい、場所に、あの六反という土地を、御準備下さっておったということがです、ね、あれが一晩の内に、出けた事から考えてもそうでしょうが、ね、こりゃぁもう、そういう例を言うならもう限りが無い時です、今度の御造営のことでは、というように、もう、私共よりも、一桁も二桁も、先の方を神様が、お考えになっておって下さっておるということ、ね、だから、まあ秋永先生あんた、あ~その、大工が、二十二日、もうぎりぎり、これはもう絶対もう、あなたの方から、その参って、長うしてくれっち言われたっちゃ、私の二十三日の方にはこういう、あれがあるから、二十二日までには、必ず、上位をすると、言いよるげなが、「ならそれ大丈夫ね」と秋永先生言うて、もう大丈夫っち言われる、もう今度間違うてきとる、ね、結局神様に無駄なじ他にないということになる、しかもその、(?)私共が、いよいよより素晴らしい、おかげを頂くためにはです、お任せしきらなければいけない、しかもそのお任せしておるその間にです、本気でいっちょ限りなく美しゅうなりましょうやということに、焦点を置かなければならない、同時に、一心に縋るということが、なさらなければならない、ね、(?)のおはらいぶしの、歌の文句を私が二つ申しましたように、ついてきなされこの提灯にであり、同時に、こんな雨の降る日におじゃるなと言うのに、と言うてそれでも、それでもやっぱり行かなければおられないというところに、いよいよ氏子可愛いという、言わば、はく、その、熱というものがですね、言うならば、このレンズたいの働きというものがです、いよいよ強、強度なもの、強力なものに、なることは、勿論ですね。 どうぞ。